上田城は真田一門の昌幸さんがこしらえました。
お城とは権力の象徴ツールである反面、殺人集団から身を守ったり、来襲してくる殺人集団とは言え人様の 殺傷を実施する必要性から周到に計算された構造物であるのも事実でございます。 各地に点在するお城の多くは戦火に巻き込まれる事なく、単なる象徴としてだけの機能を終えておりますが、 この上田城は違います。 殺人集団に二度程攻め立てられておりますが見事守り抜いており、幸か不幸か本来の防御機能をフルに発揮しております。 また、この地で攻守数千名が息絶えたと歴史資料には残っておりまして、ある種、霊場であると言う事からか、 恐れおおくてなかなか近づけずに東信濃探訪三回目まで残しておきました。 二回も攻められたのは真田昌幸さん。 攻勢は二回とも徳川方 勝者は二回とも真田方と言う理由からか智将と奉り上げられて現在の本丸には真田神社なる神域が存在するが、真田氏時代の城郭は一度破却され、後に仙石秀久により再興。 松平氏に引き続がれてから明治維新に至ったとのプチ知識を 予め予習してから興味津々で現地入りを果たしました。 |
先ずは外側から観察しました。
基本的に二の丸の一部と本丸しか残ってませんが、守る側より攻め立てる側の心境を推察するのが 趣味なんで、 最大限外側から観察します。三の丸南東方向(大手)から二の丸へ進入。 ↑と↓の画像は上田駅方向から二の丸に入る二の丸橋。 上田市内から同じ地面の高さのまま進んで橋を渡れます。 ↓橋の上から掘を撮影 かつては水で満たされてたらしい。 ↓ 二の丸虎口(入り口)の石垣。かつては櫓門や隅櫓があったのは確実。 二の丸橋を通過した開けた場所からが二の丸ですぐの場所には現市民会館があり、上田城駐車場もここ
↑ティアナは→の所に止めました。 すぐ目の前にある南東虎口(大手門)から入りたくなる心境を押し殺して、反時計周りで二の丸から散策。 掘りにそって歩きます。 二の丸北側 遠方は二の丸北虎口 二の丸西側 かなり広いですが、ずーっと真っ平なんで楽。 やや汗ばみながら南西虎口に達し所で、邪道にもこっから本丸内入ろうとしましたが、 失礼と思い、改めて大手口を目指します。 画像は本丸南西櫓(7) 江戸期から現在までずーっとこの地に残ってるのはこの西櫓だけだそうです。 建物の維持管理とは大変な事なんですね。 民間でこれだけ古いと母屋の固定資産税はかかりませんが。。。。 引き継ぎが途絶えた途端に終わります。 夕方の温泉を楽しみにしながら来た道を大手門まで引き返しました。^^; |
上田城本丸へ 大手門にある真田石 一説によると上田城北側にそびえる太郎山から掘り起こして据えたらく、真田信之さん(昌幸さんご子息)が 松代に転封の際には連れて行こうとしたらしいです。 しかし、ビクともせずに諦めたとの事。 この諦めの良さの血筋が明治維新迄、松代藩主として君臨できた理由かも知れません。^^; 本丸南東虎口 大手門南櫓、櫓門、北櫓の三連装で構成されてます。 南北櫓は明治期に民間に払い下げられ、一時は遊廓として活躍してましたが、 後に心ある市民らに買い戻され、復元されたのが現在の二基の櫓だそうです。 櫓門は完全レプリカ。 ↓ 本丸側からみた本丸南東虎口 ↓ここ南側には千曲川支流(尼ヶ淵)が迫ってたらしいが、今は面影すらありません。 大手門を固める三連櫓は見学できるので入ってみました。 入場料は250円 櫓とは言え、東京の住宅事情を考えますと、かなり広く感じます。 ↓ 石落とし ↓ 射撃口 北櫓でこんな光景は絶対に有り得なかったであろうに昌幸さん達の 家族団欒を再現したお人形達がありました。(笑) 南北両櫓には展示品多数ありました。 ↓ 展示物の一つの発掘された瓦 検証の結果、金瓦が多数本丸北西櫓付近から発掘されたらしいです。 かつて金ぱく瓦を備えた天守が本丸北西側に存在した可能性がかなり高いとの事。 復元された金箔瓦
一番興味深かったのは、歴女ブームを反映してか、若い女性グループが多数見学してた事。 |
ひととおりトリプルタワーを回り、いよいよ本丸を散策。
下段と上段の2段構造で周囲を土塁で囲んでます。 下段には現在の真田神社。 上段には広い面積のいたるところに木が植えられてるのが現状ですが、 当初は本殿などが立ち並んでいたとの事。 基本的に現在の櫓4基や、かつて存在した7つ全ての櫓はこの土塁上に存在しました。 その模型 南側の東西虎口と北東側は連装式で、唯一、北西側の櫓(5)が単体構造。 発掘調査によると北西側の櫓が金箔瓦を多用した天守だったとする説が有力みたいです。 櫓群 基礎工事はほとんどなく、土累に直置きだったらしく画像のような敷石の上に柱を載せた程度のハッタリ&戦闘用構造物なのだけれど、 驚く事に耐震構造には殆ど関心がなかったと思われます。 ↓ 画像のように石は載せる柱の直径に合わせてカッティングされてました。 推定される柱径は約50センチでマッチ棒の我が家の柱とは比べ物になりません。。 軽く3時間以上、上田城を徘徊しながら思ったのですが、 この歴史上の実績からか難攻不落とうたわれる上田城。 真っ平の典型的な平城でした。 本丸南側にはかつて千曲川支流の淵が存在してたものの、地形的に要害とはとても思えませんでした。 ではなぜに徳川方は圧倒的な兵力を投入したにも関わらず、二度も敗退したのか。。。? |
智将と奉り上げられた真田昌幸の
二回に渡る上田攻城戦の主な概要
兵力比 一回目(第一次) 天正十三年 真田勢 2000(上杉の後詰6500。戦闘不参加) 徳川勢 7000 後詰の参入なしでよくぞまぁ。凌いで撃退したと思います。 二回目(第二次) 1600 真田勢 2500(後詰なしの完全孤立も中央では石田氏と大谷氏等が挙兵作戦展開中) 徳川勢 38000 関ヶ原に進行途中に立ち寄った徳川方ではありましたが、孤立無縁でよくぞまぁ約15倍を相手に凌いだと思います。 私が興味津々となる心境をご理解頂けると思います。 私見ですが、徳川方は上田城を「なめていた」としか思えません。 私ですら真っ平な城にしか見えませんから、当時の遠征責任者もそう感じだのではないでしょうか。そして「こんな平城は簡単に落とせる」と、思われたのかもしれません。 なんでもですが、「いける」と思った瞬間から不思議と上手くいかなくなります。 人間。上手くいかずに焦れば焦っただけさらなる失敗を繰り返し、簡単な事ができないと怒りに変わってきます。 そして怒れば怒るだけさらなる泥沼にハマったりします。 そして徳川方には二回とも時間が、なかった。
一回目 (凡例) 時間に追われて車で進行中、思わぬ幹線道路の渋滞にハマってブチ切れながら回避のために路地に逃げたら行き止まりだった。みたいな…(笑) そんな負の連鎖地獄に陥ったであろう攻め手の光景なんかを空想しておりました。 もちろん真田方は負の連鎖地獄へ誘導する為に様々な施策を講じたであろう事も推察されますが、 人を血眼で怒り狂わせ、誰もが真っ当だと思えるような適切な判断能力を削ぐ技術に秀でたのが真田昌幸だったのかもしれません。 武田二十四将の一角であった兄二人を長篠の騎馬特攻で亡くした真田昌幸さんですから…。 どうであれ人間はどんなに時間の無い、いかなる局面でも無の境地で冷静かつ沈着な対応が大事なんだと改めて感じてしまいました。 2連勝された上田城の真田家の方々。 御存知のとうり奮戦むなしく関ヶ原直後に拘束されます。 上田城攻城戦は単に地方都市での局地戦にしか過ぎなかったと言う訳で、 戦術で勝っても戦略的には負けた事になります。 とは言え、二回目の上田攻城戦で真田家を割って徳川方に属した 真田昌幸さんの御子息の一人である信之さんの家系は 松代藩主として明治維新を迎えてます。 昌幸さんの娘婿は石田光成さんのご兄弟 昌幸さんの御子息の一人である信繁(幸村)さんの正室は大谷刑部さんの娘さん。 昌幸さんの御子息の一人である信之さんの正室は徳川重臣中の重臣、 徳川四天王の本田正勝さんとこの娘さん。 うーん。色々と私見を並べましたが、結局のところ。。。。 人の運や縁、そして人との繋がりで全てが決するような気が致します。^^; 隣接施設で展示されてる具足 下は仙石氏具足。 無の文字が素晴らしい。私は毎日、神棚に手を合わせて「無」をイメージ致します。 恐れ多いですが、同じ発想かと思われます。 無とは何もないようですが、無とは全ての基礎であり、無のキープは難しい。 無事故無違反、感無量、無線、意外と無の付く言葉は多いのが事実。 ちなみに仙石さん。豊臣氏の九州遠征に参加するも軍令違反を犯した上に島津氏に大敗。 相手が悪かった感もありますが、責任を問われて除名されました。が、ゼロからの出発と言う意味も含めてか、 この無印を付けて小田原攻めに徳川氏の与力で参戦。 見事、武功を上げ、 豊臣秀吉公から除名を解除されて小諸を与えられた。と、一説にはあります。 後に小諸から上田に転封され、真田時代後に破却された上田城を復興されられた立派な方です。 2010.6.10 |